運命は果たして決まっているのか?の話
今日何書こうかな〜と全然別の話題を用意してたのですが、その最中にTLで面白そうなものを見つけてしまったのでせっかくだから書いちゃうぞ!
これに関しては昔から一家言あるのです。いや、一家言は大げさだけど。私の中の観念です。
「未来はいちおう理論上は自分で変えられるし決められるけど、自分という今回の人生の素材自体はもう変えられないから、その範囲内での話ってことにはなるよね。でもその『範囲』を受け入れた瞬間に、無限だ!って感じるよ!」
です。
んーとね。
「運命の出会いだわ!」みたいなやつ、あるかって?ありますね。
ただ、その運命にもいろいろあるよね、ということ。
例えば、ソウルメイトという言葉はもう相当一般化してると思うのですが、あれは「よくも悪くもご縁がある人」、互いから何かを学ぶ相手なので、もっといえば、トラブル込みで付き合う、というのがソウルメイトです。決して甘々のラブラブでもなければ、楽勝の親友などでもありません。天敵となる場合も多々あります。ただ、天敵同士だからこそ、濃く、効率的に学べます。これが地球のシステムなんだぜ。
じゃあ、例えば。「天職」
これも誤解の多い言葉ですが、天職って何ですかね。生まれつき努力もなしにすいすいできること?
そう思ってるとしたら、その人は本当には、努力をしたことがないのでしょうね。鍛錬、研鑽を続け、練習をやめず、どれほどのことがあっても歯を食いしばって耐え抜いたこともなければ、自分ではどうにもならない壁にぶち当たって世界を呪って泣いてもまだその道を好きすぎてどうしても諦められなくて続けた、ということもないのでしょうね。
一つのことを続けてるというだけで、または海外へ行くと言っただけで、ひどい罵りを受けたこともありました。こういうのって案外身内が撃ってきますよね、ははは。(笑い事じゃない)
何かを続けるという時は、そういうことがあります。何にせよ、あります。
何をするにしたってあるでしょうけど、努力も研鑽もやったことがない人間が、スイスイとその道で成功してるわけがないのです。
ただ、「研鑽を特に苦に感じない人」なら、たくさんいます。それをこそ才能と呼ぶ、というのも今はよく知られている話ですね。
私も、自分がそのタイプだと思います。
嫌なこともいっぱいあったし、私は自分では、今までの生涯で一度も大きな社会的成功をしたことのない人間だと思っています。が、続けてこれている。お仕事もいただけてる。確かなのは、気持ちが折れていないことです。それどころかどんどん太く確かになっている、ということ。
若い頃、「心が折れた」といって辞めていった子たちが、いっぱいいて。そういう子達は就職していきました。それはそれで、よかったと思うんです。その方が幸せになれる子たちだというのは、当時からよく分かってました。
ただ、私には、折れるという意味が全然分からなかった。そういうふうに生まれついてなかったからです。
続ける人というのは、そういう部分があるんだと思うのです。
つまりそれが「自分という、今回の人生の素材」、です。
これは変えられないのです。
ですから、例えば何かお稽古事でもやろうかって時に、まったく野球に興味もない、体も動かしたくないという子供に、「可能性は無限大だ!何にでもなれる!」といって野球を押し付けるとする、じゃないですか。やめたい、もう嫌だ、好きじゃないと言っても、続けなければ何もえられないぞ!!とか言いながら無理やりさせるとする。
まぁ、50000000000000分の1ぐらいの確率で大リーガー出るかもしれないんですけど、ほとんどの場合は野球嫌いになるだろうし、サボるだろうし、お稽古事変えた方がいいですよね。そういうことです。
で変えた先がその子に合ってて、嫌なことをやった時楽しくなかったけど今は楽しい!と思えるだけでも、本人に希望がなければとりあえず野球に入れといた、でOKだと思うですけど、やっぱ興味ないわ…てなったら素直に変えるべきだなと。
それと同じで、人間が「何にでもなれる、なんでも可能だ」というのは、ちょっとばかし、乱暴な理論なわけです。
ただ、例えばほとんどの人間にかなり平等に与えられている部分というのは、可変項目です。
これは社会的なものだったり、「ポジティブ思考」ができれば本当に変わるよ、という部分。
これが、自己価値であったり、お金に関してであったりする部分です。
「人間は平等である」というのは、本当です。
本当にやりたい、やるぞと思えば、そのへんにおいて不可能なことは、現代の先進国に居住していれば、基本的には存在しません。
あるとすれば親から受け継いだ思い込みをそのまま信じると決めてしまったか何か、ご自分の思考力の制限によるもの。
実社会には、それはもう今、ほとんど(ほとんど、としか言えませんが)、ありません。
人間性が向上して、自分の中の偏見が消えたり変わって健全なものになっていくと、それにふさわしいものと出会ったりそれがやってきたりすることが増えてきて、世界が変わっていきます。
なんでも同じなんですけど、自分が女だから、黒人だから、ゲイだから、障害があるから、頭が悪いから、家が貧乏だから、成功しないんだ、とかね、いうのって全然できる。誰にでもできる。しかも、楽そうに見える。でも、楽なこと一切ない。楽しくも、なんともない。
逆に、自分の価値を見出してやるのです。女だからこそ、ここで自由に動けた。黒人だからこそ、この文化を持っていた。ゲイだからこそ、人間の中にある男女性の感覚を繊細に感じることができた。
その結果、ワンランク上の人々に、どんどん出会うようになってきます。
自分が想像もしてなかったような、繊細さと大胆さを持ち合わせている素敵な人たちに。ものの価値が分かる人たちに。美的センスのあう人たちに。そうすると、私は間違っていなかったのだ、むしろわたしが私だからこそ出会えたのだという感じが、わかってきます。欠点と長所は背中合わせ、一枚のコインなので。
そういうのが「自分という素材」との付き合い方で変わってくる「運命」の、部分です。
これ、わかりますかね?
だから私は、基本的にはこんな感じで答えます。
「運命は、これから先の未来は、いくらでも変えられます。
ただし、あなたが自分自身というものを、まるごと全部、受け入れることができてから!」
とりあえず十分書いたような気がするので、ここで放り投げておきます。
少なくとも私は今までこうやってなんとか生きてきて、やっとここ数年、私って、これでよかったんだ…!すごいんだ…がんばろ…😭ってなっています。
これからも、素敵な人たちに会ってたのしくて素晴らしいことをいっぱいいっぱい一緒にできるように、生きていきたいと思います。
さて、今日は写真がなくて寂しいから、無事に疥癬の2回目の注射を終えて、おそらくこれでほぼ良くなるのでは?の見込み中のもるちゃん。
ケージ全掃除中に野菜をお召し上がりになられているご様子。
まぁるい…(ギャワイイ…)
おやすみなさい♡