オラクルカードはっけん日記リターンズ

オラクルカードの使い方や解釈の仕方のヒント、及び筆者の実際のスピリチュアル体験を記録がてら綴っています。

怒りってなんじゃらほい

やたら軽やかな書き出しで始まりましたが、今年の個人的テーマは「怒り」でした。

て書くとまた怖いんですけど、ぜんぜん、普通です。

感情の一つとして、怒りというのは至極真っ当なものだからです。

怒りを抱きにくい性格の人はいますが、この暴力の星とも言える地球に生まれた以上、怒りを一回も経験せずに死ぬ人間はいないはずです。

特にそれが、何かを愛するが故、誰か(勿論自分を含む)の尊厳を傷つけたことに対して怒る場合は、全く心配の必要はありません。

また、くだらない自尊心と、絶対に守らなくてはならない自尊心の2種類があります。まだこの二つの見分けがつかない人は、あまり怒るべきではないかもしれません。ただのヒステリーになってしまうのなら。でも、これは守らなければならないものだと確信しているなら、怒るべきなのです。それを抑えてはおかしなことになります。例えそれが話し合いの結果、自分が間違っていたと気づいたとしても最初に、それは違う!と直感したならば怒る方がよいです。間違ってたと分かった時点できちんと謝ればよいのです。誠意やまっすぐさは通じます。保身に走って謝らないのは、たいへん問題ですけども。

とはいえ、要するに怒りって、扱いに困るんですよね。

確信が持てない場合もそうですけど、特に天使やなんかが好きな繊細な私たちにとって、人が怒るのも嫌だけど、自分が怒るのも嫌だったりして。むしろ、人が怒るのは仕方ないけど自分だけはニコニコしてたい、と思ってる人もいるでしょう。それが例え偽りのニコニコだとしても、まだその方がマシだと固く信じている人もいるでしょう。優しさが故に。

これは適切な怒りだ、と明確に言える人は、あまり多くないのかもしれません。

でも、もしあなたがその段階に達しているのならば、主張することを始め、続けていきましょう。

2017年の個人的テーマだったことによって私自身、「怒り」に対する印象は非常に大きく変わりました。

自分が前に進むための、一つの混じり気なしのモチベーションとして機能することも多くあるのだと自覚しましたし、それが愛に基づいていることも確認できました。つまり、私の怒りは何か大切なもののために腹の底から湧き上がるタイプであって、自己保身のヒステリーで表面的に爆発するタイプの怒りではないということも分かりました。そしてだからこそ、発散や表現方法が必要であることも。それを適切に行えば、非常に健やかなエネルギー源であるということも。

コツは、いくら健やかといっても湧き立った瞬間は頭にもきてますので、適切に表現できる程度に冷めるまで少し待つこと、きちんと伝えられるところまで落ち着いたらなるべく率直に相手に伝える方法を考えること。対処すべき事態である場合はなぜ自分が怒っているのか、どう改善して欲しいのかその余地はあるのかないのか等を冷静に見極めてから、相手も自分も傷つけない適切な表現で伝えること。そして一切罪悪感を抱かないよう努力すること、です。

スポーツなどでの発散や芸術表現をする場合はほぼ待たなくて大丈夫です。何故なら芸術表現できるということは、その怒りは対処の必要な段階にはなく、元々も愛から生まれているからです。その場合は邪念が入る余地がないのでそのまま出しても大丈夫。それは純粋なエネルギーなので、誰も傷つけません。誰かを励ますことになる時もあるくらいです。

てわけでここからは、私が今年学んだり実践したりした「怒りを表現する、ということ」について書きたいと思います。例によって長いのでつらつらお読みください〜。何度も書いてて文章おかしいとこもあるかと思いますが、ま、手記ということで…。

・今の私の目標は「チェコ語で怒れるようになること」です。

私は元々、怒ることに嫌悪感があるため(理性を失ったヒステリーを見るのが昔から大の苦手だった)、怒る、というのは私にとってはものすごく労力がかかることですし、怒った後に大抵「自分も同じことを人にしていたらどうしよう」と自分を疑い怯える期間が入ってしまうことを考えると、実に割に合わない労力なんです。

とはいえ、相手にそれを伝えないと、自分のストレスは増えに増えに増え続け、相手はのうのうと暮らしてる。これはフェアじゃありません。相手には少なくとも、自分の行動によって怒っている人間がいることを知らせなければ(爽)。

というわけで、私の性格だと「適切に怒れる」レベルの豊富な語彙を身につけないと、この国で自分は健全には暮らしていけないだろうとつくづく実感したために重い腰を上げて先生を探し、天使が見つけてくれてやっと先月から、難しいこの言語を再び学び始めることができました。

適切に怒るためには、何かあった時にとっさにきちんと相手におかしいことを伝え、どうしてそうなったのかを相手から正確に聞き、これから何ができるのかと伝え合えないとですので。頑張ります…!( ´ ∀ ` )今の目標。。

・とはいえ、チェコ語ができるようになるまで待ってられない案件は日々湧いてくるわけで(もはや笑うよね)、その都度適切に不満をお伝えしたり、らちがあかん相手からはさっさと手を引いて他の関係者から話を根回してもらったり、これはちょっと我慢して待ってれば平和に終わるからとりあえず相手が謝って対処するまで眺めてようと見極めたりとあれこれしないとダメなんで、そういうものには英語で対処しています。個人主義もあってか遠回しの嫌がらせはほとんどない分(チェコ人同士ではだいぶあるみたいですが)、「察する」という機能はほとんどついてないので、話しててこいつは駄目だ会話にならんと思った瞬間に担当者を変えてもらう、など迅速な行動が求められます。ええ。これはたとえ私がチェコ語が出来たとしても同じだということは、チェコ人の大家さんがチェコ語で予約したガス修理屋が二件ともすっぽかしたことで立証されてますので(いやマジで今年どーなってんだ!!!)もう対応はとにかく早め早めに…。あと待ってても大抵連絡は来ない…。たまに連絡があっちからくるともう目を剥いて驚愕……、いやマジでなんて国だ!!!こんなだから金ねーんだよ!!!いえね、私の親友たちとかはさ、私と性格が合うぐらいだから連絡もマメなのでまず大丈夫なんですけど、社会生活において結構ね…。困るので。。

というわけで以上、言葉・コミュニケーション編でした。

・それと、言葉の外からやってくる「怒り」に関しては、絵を描いていました。ほぼ生命力として湧いてくるレベルのやつ。

実は、絵を描くという行為に「怒り」というエネルギーが直結することができるとは今まで生きてきて一度も思ったことがなかったため、ちょっと戸惑いましたし自分としても驚きでしたが、やってみると案外親和性が高いのです。というのは、「なぜ怒りを抱くか」というものは強烈で純粋なエネルギーであり、自己表現だからです。誰かにふっと言われた一言、みたいなことに後で突如ぐわっと怒りが湧いてきて、その勢いで紙に向かうんですが、カッとなってるわけではなく奥底からぶわぶわっとマグマのように湧いてくるため、絵を描きながらそのマグマが全て体と心から流れ出ていくのを見ているような感じです。

出切ったところでなんだか妙にスッキリして、なんで怒ってたのかはすっかり忘れてしまうんですが(本当に完全に忘れてしまうのがすごいところだ…)、興味深いのは、それを身近の信頼できる人たちに見せたとき、その絵をすごく気に入った人がいたことです。その人は若い人でしたし、その絵は表面的には怒っているようには全く見えませんでしたが、おそらく何か強いものを感じたようでした。その時に、あぁ、芸術って「昇華」だと言うけど本当だな、と思いました。自分自身、その絵を見て何か特定の嫌なことを思い出すというような次元の低い反応は一切生まれませんので、ちゃんと芸術になり得た、ということなのだと分かりました。

これは面白いです。絵を描く時に使えるものを、また一つ見出すことができました。

そのふつふつと湧いてくる強い感情は、それが怒りであれ喜びであれ無念であれ、純粋な「自分そのもの」であるからです。

・そしてもちろん、「皮膚」の問題、です。

今年最も大きかったものはこれですし、根本的にはこれが一番大きなものだと思います。わたしが体内で作り出してしまう矛盾を教えてくれるものでした。

ホメオパシーによって、体内に溜まっていた重金属がアレルギーの原因と知らされた時には本当にびっくりしました。一時的にさらに悪化し、とんでもない状態にまで行きましたが、今は落ち着いてきました。今も治療のプロセスにありますが、徐々に改善していってます。殻を破る、というテーマにもひと段落ついたのか、炎症が顔に出ることもなくなりました。

その学びの最大のものは「自分のペースで行動していないと、体は怒りを感じるのだ」ということでした。

炎症は基本的に全て「怒り」です。何に対してどのように怒る、というのにはいろいろありますが、私の場合は自分の意志の力が強すぎる分、意志と不安だけで体を無理やり働かせて作業しようとしがちなわけで、そうすると一気に発疹が出て腕や脚が血だらけになってしまったりそれが顔に出てしまってとてつもない目に遭い、さすがに凝りまして、とにかく自分の気持ちや体調に絶対無理をさせない、を心がけるようになりました。かなり慎重に、焦らずに進め、飽きたとか疲れたとか腹減ったとか思ったらなるべく即座に休憩し体のニーズを満たす努力をし、無理だと思ったらその日は終わりにする、といった、いわばとても普通のこと、を心がけました。

そうしたらこうして年の終わりには、ちゃんとわがままになれるように、なりました。

疲れた!もうやだ!と思ったら離脱する、なんか元気溜まってきた!と思ったらむくっと起き上がって作業に戻る。その流れが最も効率がよいですし、やりたいことがやれますし、自分が生きていて楽しい方法でもあるのです。体のペースやニーズも、きちんと叶えてあげることができます。それをするようになってから、私の皮膚は血を流さなくなりました。

こんな単純なことすら、今までの私には十分にはできませんでした。それはなぜかというと、私は自分を「こうだ」「こうあるべき」「普通はこうしてる、このぐらいはすべきだ」というように、全く意味不明の基準で縛りつけていたからです。それが失敗していることには、体の反応がなければ気づけませんでした。

しかしそれが間違いであると、体に教えてもらいました。私がわたしのペースやひらめき、行動効率がきちんとできていて、体に従えばちゃんと達成されるということを信頼すると、体は安らぎ、心はウキウキし、勝手にアイディアや進むべき方向、今とるべき正確なステップを思いつき、それを順当に踏めばそれらはちゃんと達成されました。焦りや決めつけはそれを破壊するだけでした。破壊されれば失望し、モチベーションと自己への信頼がごっそり損なわれます。大変な悪循環です。

人間は目に見えるトラブルが起きないと自分を改善しようとは思わないものです。私もそうです。今回はあまりにも皮膚が悪くなるという経験を経て、急いでやってしまおうと思った瞬間に私のペースは狂い、体はついていけないと感じていることがわかりました。

これも、違う形での「怒り」の学びでした。

体の声を今までよりずっと聞けるようになったのは、最も大きな収穫だったと思います。

これからもっと繊細に、敏感に、自分の感じているものを認め受け入れ、健やかに生きてゆきたいと思います。

そんなこんなで今年の

・人に伝えるべき怒り

・芸術表現に用いる怒り

・皮膚・体の怒り

の三つで一年てんやわんやしてる間に12月になりました…な…。なんかもう…すごい一年だった…。とにかく濃かったですし、とにかく言えるのは、自分の「感情」と、ものすごく、向き合わされた、そんな気がしました。

奇しくも夏に、書道家の先生に「君の絵は、感情なんだ」と言われて初めて、そうか、感情なんだ。って分かってからは、ずっと分からなかった私というものの鍵が初めて手に入ったような感じがしています。

「感情」が非常に優秀なセンサーであることは、オラクルカードでも「感情」「繊細さ」などのカードを通して語られている部分ですが、そのことを様々な角度から深く知ることとなりました。

一年がかりでド浄化させられて、これからまだやらなきゃいけない感じがしています。でも、なんかやっと「自分」という人生を歩けるようになってきたのかな、という感じがしてます。というのは、楽しいんです。生きてて。(笑)なんか、初めてかもな…て思うんですが、本当、表面だけ見たらすごい辛いのに、今、すごい純粋に楽しくて。

自分の力を恐れなくなって、自分のあり方の特徴を知って、そのあり方との共存を徐々にできるようになってきて、ちょっとバランス崩すと感情や体がすぐさま教えてくれて、ありがとう!繊細でよかった!って言いながらまた立ち上がる。

体の声と心の声は直結している、と実感しました。

体も心も、他ならぬ私自身でありながら、ちょっと別々の物質みたいなとこもあります。

こういうとこが面白いですよね…。

この「怒り」の年が、これからどんな風になっていくのか。自分でも、楽しみです。

でもこうして怒りというものを知ることができて、なんというか、また一つすごく深く豊かになれた年、だったという気が、実は、しているんです。より自分自身と深く繋がれた気がします。仲良くなれた気がするんです。

へへ。。

正直な声は、やはり良いものです。

来年もよろしくな!俺!

現場からは以上です!おやすみなさい🌙🦄🌙  ←ところで、絵文字ってどのぐらい表示されてるのでしょうね…?