オラクルカードはっけん日記リターンズ

オラクルカードの使い方や解釈の仕方のヒント、及び筆者の実際のスピリチュアル体験を記録がてら綴っています。

思い込みは、表現するためにある。

思い込みってよぉ〜〜悪者にされがちだけどよぉ〜〜〜思い込みのない世界なんてどれだけつまらないかっていうとよぉ〜〜〜って話なんですよ。

思い込みだって、適切な使い方ってものがあるのですよ。だって、文化的習慣だって、風土の慣習だって、全部思い込みなわけですよ。常識なんてどこにも存在しないんだもの、海外住めば毎日それを叩き込まれるんでいやでも分かるんですけど…(私です)

そして、思い込みこそが、人生を生きる上での最大の楽しさであり、最も重要なことなんですよ。

つまり、「個性」って、それなんだよね。というお話です。

思い込み、自分がただ普通に何の理由もなくそう思ってること、いや、普通にこうだろ?と思ってやってる何気ない一つずつが、たいへんに豊かで楽しくて興味深い世界を形作っている。

「こだわり」なんていうのも、要は思い込みなんだけど、それがなくなったらもう、世界なんて何が面白いのか。

要するに今人類は、「表現する」ということを、学ばなくてはならない。

そんなことまで思うのであった。

へんにスピッたりするとちょっとみなさん、こういうことが頭をかすめること、あるんじゃないですか。「信念」のブログの時にちょっと書いたようなことです。

つまり、「この考え方はダメ!書き換えなくちゃ!」みたいなやつ。

いや、それが嘘だとか間違ってるって言ってるんじゃないんです。ただ、それを適用すべきなのはあくまでも「自分が自分の主義としてそうだとは思ってないのに、成長過程や環境や時代のせいでそれを信じるべきだと思った結果、自分に負担をかけて辛い思いをさせていたもの」についてのみ、なのです。

しかして、数多ある「思い込み」の中で、果たしてどれがその辛いものであり、どれが「おもろいネタ」「個性」に繋がっているものなのか。これがわからないと、使い道だってわかりませんよね。

これをしっかり判別しないでなんでもかんでも「信念や思い込み=悪者!」みたいな風潮…があったんですよねーその昔…(アラフォー以降だけかもしれないので、違ったら読み飛ばしてください)。

じゃあ、どうやったらその判別がつくかっていう話はあまり、明確にされてないのかな、と思って、しばらく頭の片隅で考えてたんですよ。

そしたら自分の体験もあって、ある日どどっとまとまったので、書きます。

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きっかけは、去年の秋から通っている、フランス語の授業でした。

フランスという文化のせいだと思うのですが、毎回のように頻繁に自分の好き嫌い、良いと思う悪いと思うという意見を言わされる会話練習があるんです。これはABCDも読めない状態で一学期が始まった瞬間からそうで、好きなものは何かを初っ端から言わされましたし、いろいろな表現や文法を習う度に必ず「これは私はいいと思う/悪いと思う、なぜなら〜」という表現が、非常に頻繁なんですね。主観が大切なんです。主観があるからこそコミュニケーションって楽しいんだろう?と言わんばかり。フランスで自分の好みや意見や考えを言えない人間は、さぞかし馬鹿にされるだろうなぁ…という予感があります。(好みだ…)

会話練習でも、私のよい習慣悪い習慣は〜と発表しながら隣の席の子と練習したりなど、とにかく、常に意見や好みを言う場面が多い。

私は生来のお喋りなので、こういう表現を学べるのは有難いです。個人の好き嫌いからこそ、会話のきっかけになると思うし、誰が何を好きで何を嫌いでも、フラットに話し合うならばそれはいつでも面白いと思うのです。なので、基本的には大賛成、ですよ。

ところがですね。

私これ、カジュアルな会話練習としては、すごく苦手だったのです。。

初期の頃なんて語彙力がないからなおのこと何も言えなくて…。最初に思いつく表現の仕方が複雑なせいで、今知ってる簡単な文法や語彙の中からひねり出せない。さらに言うと、深い話題になるとはっきりと主義主張があるのですが、表面的なことや日常的な瑣末なことに関しては「どっちもいいと思うよ〜」て言っちゃう方なので、「いやもうどっちでもよくない…?」と心の中でマジレスしてしまうものの、それじゃ会話練習にならないから、とにかく軽率に好き嫌いとか、これはよくない!とか、言わなくちゃならない。しかし、出てこない。。考え込んでしまう…。心配した先生に「ユキコ、なんでもいいから、間違えたら直してあげるから、とにかく口に出してごらん」と授業後にそっと諭されるレベル。でもやっぱり、みんなみたいに簡単なライトな質問や答えが、どうしても出てこない。。とにかく、さっと口に出せないのです。適当な質問や適当な回答が、出ない。。

文法や語彙力が「最低限」に達した今は、ずっとラクに発言できるようにはなりましたが、それも最近の話です。

試行錯誤して、なんとかかんとかやりくりしてるうちに、感覚でつかんだ、あるコツがありました。

そしたらふと、ラクになったんです。

語彙力表現力がついてきたからというのも勿論あるのですが、そうではなく、会話をとにかく知ってる範囲の語彙力で弾ませるために必要な要素、その最大のものが、「思い込みをあえてそのまま、戯画化して表現する」だったのです。

至極フツウのことを、ちょっと冗談めかして、あえて言い切る。

例えば、「私はお肉を毎日食べる。これは良い習慣!」と言い放ったら、先生が思わず吹き出して「なぜそう思うの?」て聞くから、「なぜなら、私は肉を愛しているから!!」と言うと、爆笑が取れるわけですよ。私は嘘は言ってない(笑)愛している物を食べるのは、結局回り回って健康によい!と本当に思ってるので。でも、一般的には「健康にはちょっと悪いんじゃないかな‥?」と思われてるでしょ。そこのギャップを一言で言いあらわせれば、それでいいわけ。少なくとも、会話練習としては完全に成立する。

「実際の自分をデフォルメして出す」という手法に気づいたら、あー、「思い込み」でいいんだ!!と思ったのです。

私がこれを実行するには、「自分の思い込みを戯画化する」という感覚でやると、スッと出て来るんですよね。

でも授業のためだけじゃなく、誰か知らない人と交わす会話なんて、毎度こんなものです。その時引っ掛けたフックで「なんか面白いな、この人」ってお互いに思えれば、だんだん仲良くなるもの。仲良くなる人とはどんな方法で会っても、なぜかインスピレーションを感じるものですし…。

私なんかは絵描きでよかったと思うのは、絵のポストカードを見せた瞬間に、だいたい、分かってもらえるので…。べんりです。笑

これも、自分の中味を全部さらけ出せたな!と思う絵をあえて選ぶことで、いろいろ回り始めたので、やっぱり、そういうもんなんだなぁ…と感じるところです。

てわけでまとめると、

自己表現は「思い切って自分をデフォルメして、楽しめるか、なんじゃないか」

と気づいたんですよね。

思い込みでもいいから、ちゃんと「表現」した方が、いいのよ。その方が、世界は豊かになるのよ。

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ということでまとめてみました。こちらの表をご覧ください。

字は汚いんだけど、このほうが魂感じられるかなと思うのであえてこのままにしてみました。見れるかなー。

とりあえず、一通り読んでみてください。

バーフバリの掛け声は、アレです。あの…。アレです。勢い付けです。イェイ。

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原寸で!載るのだろうか!?すごいな!?(初めての試み)

思い込みはね、本来はとても素敵なものなんです。宝箱です。最高にオモロイもの、なのです。

だから「なんで書き換えんの?」ていうのがまず最初。

思い込みというのはですね、裏を返せば、その人がその人という環境で生まれ育ち、「これが当たり前だ」と思って暮らして来た、文化的、思想的、経済的背景の全ての結集なわけです。そしてもちろん、その人独自の感じ方や考え方の傾向が織り込まれている。これ自体が芸術品です。

つまり、あなたのあなたたる所以。

自分が自分として生まれ、存在してる意味の全てです。ライフパーパスと言ってもよいでしょう。

皆が皆、悟っちまったり文化が平坦になったり個性がなくなったりしたら、ダメなんです。それは量産された機械。人に生まれた以上、それはあり得ません。

個人のことでなくとも、例えばグローバル化の進んでいる現在ですが、いざ外国人として外国に住んでみると国民性や独自文化はそうそうなくなりそうにないので、私としてはある意味、ホッとしちゃいました。。歴史という過去の出来事や来歴、形成された性格や芸術、食べ物、常識……。土地という縛りはけっこう強いです!そのままでいて!!

というわけで、個性というのはなんであれ、基本的には本当に素敵なものなんです。

究極の話、同じ家で生まれた一卵性双生児だって、性格も見た目も変わるのと同じです。二人と同じ人はいない。同じことを体験したとしても、感じたことも覚えたことも忘れることも、まるで違う。それが人間です。

だからあなたも、あなたという「当然こうだと思ってること」「それが当たり前だと思ってるもの」を、発信してよいのです。

で、じゃあなぜ「思い込み」が悪者扱いされることもあるかといえば、当然ですが、物事には良い面と悪い面の両方が存在するからです。どちらかだけになることはない。

ということは、「どうやって思い込みを識別するか」と「必要ない思い込みは解釈を変えることで善の面を発見して生まれ変わらせること」と、「個性として表現すること」のどちらかを施す、ということになるんですね。

ここで私が思い込みを「捨てる」と言わなかったのは、捨てられるものなど何もないからです。

忘れる、捨てる。それこそがまやかしです。それ自体が存在していない。人は誰でも、過去にあったことがあったおかげで今がある。そのどれ一つ欠けても、今の喜びも光もなかった。未熟であった自分を許さなくてはなりません、なぜなら、すべては許されることになっているから。なのです。許されない個性など、存在しないから。地球が私たちの存在を保証しているのが今「生きている」理由です。ですから、できるのは、自分が悪だと思い込んでいたものに善の面も見出すことでバランスをとること、です。

じゃあ、それをどうやるか。っていう話ですが、なんでもかんでも「直接対決」しなくていいんです。

今把握できている「ネタになる思い込み」を楽しく表現していくだけで、それに引きずられて「悪でしかない」はずだったものにも、別の面が見えてきます。

…"Humor"などのカードも、本当はこういうことが言いたいのかもしれませんね!

表現というのは、なにも芸術的なことに限りません。普段何気なく口にする話題一つでも、ツイッターの呟きひとつでも、なんだってできます。自分が好きなことをしろ、というのはそういうことですね。好きな方法でやりましょう。楽しめることをしましょう。ペースはもちろん、あなたのペースで!

そして「ネタだから面白い」という認識で自らの思い込みをあえて晒して表現していくと、みんながみんなではないにせよ、琴線に触れた人から「おまえ、オモロイやつやな!」と反応が来て、転がっていきます。

自分の思い込みを表現する。例えばこんな感じ。

「個人的になんですけど、これってこうじゃないですか?」

「何言ってんだお前頭おかしいんか?おもろいな」

こうです。(こうです)

私なら、食いつく。。個人的な歪み(でも引くほどのじゃないやつ)って、この世で一番オモロイですからね…共有できない好みほど楽しい…。

ただし、当然「ネタ」なので、禁忌はあります。エログロは基本的に初対面はやめときなね。あと、自分や他者の尊厳や自由を貶めたり奪ったりするものは、全て表社会ではNGになることは承知すべきですよもちろん。

でも、逆に言えばそれだけです。それを客観視できていれば、それに絡む表現自体はOKですし、さらに言えばこれが芸術ジャンルにおける「表現の自由」です。当たり前のことが分かってないと、できないんですよ。映画や小説やマンガやゲームでそれらの表現が矢面に立たされることがありますが、完全なお門違い。

まぁそれはさておき、そんなわけで、君の「思い込み」を聞かせてほしい!我は、そう思っている!!!!マジです!!!

そして下段のオマケ的なものですが、

思い込みを、表現するか、押し付けるかは全く違う、ということ、そして

さらに「信念」は別のものだ、ということです。

どのようなネタであれ、押し付けはダメです。だいたいね、思い込みの怖いところはこの「押し付け合戦」になりがちなところ。これで悪者扱いされがちなんです。でも、思い込みというのはコミュニケーションの道具として冷静に楽しく表現し合うべきなのであって、これをまともに取りすぎたり、さらには押し付けるような形で表現するのだけはダメです。

中にはちゃんと適切な距離感で表現してるのにブチ切れてくる「にほんごのよめない人々」もいますが、それはまたさておきね。なにせ、あなたに非がないなら気にしなくてよいものなので。はい。

というわけで、どのような話題であれ「押し付け」はだけは駄目です。戦争になります。全員があなたに同意するわけがありません。あなたもまた、全ての人に同意する必要などありません。(これのどっちかが崩れると大体戦争になる)

支配されることも、支配することも、断固拒否してください。それは人間としての尊厳を剥奪する行為ですから。

ですが、「表現」であれば、まったく別です。面白いんです。「私はこれが好きで、こういう時こうしていて」という話は、キワモノであればあるほど「何それ??面白いな」てなります(私の場合)。冗談がわからない人にはニコニコ適当に相槌でも打って、話のわかる人とだけ楽しい会話をしましょう!というのは、話がわからない人に話続けるのも結果的には押し付け行為になってしまうのでね…。…………人間って、むずかしいね……(悲)

そんな感じで以上です。

信念は、もっと次元の違う話ということで、冒頭にある前記事で理解してください。

しくよろ!!!

以上です!!!!(なにげに半月以上練ってたこの記事…!!やっと書けたー😭)

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この記事で一番私が言いたかったのは「思い込みには二種類あること」を意識してくれたらいいな、ということです。

毎日、自分が何かを思ったり、感じたり、特にそれが辛い方向へ行ったとき。

「待てよ、これってどうなんだろ?」と、自分でチェックすることができれば、劇的に毎日は変わって来ると思います。

辛い思いは基本的には「しなくていい」と気づいてくれれば…。

自分に辛い思いをさせないことが、自分の命への責任だと、その重大さを感じてくれたらと。

私の一番の、願いです。

💫

死、生、養育。

今朝このツイートを見て、どうしようか迷ったのですが(覚悟がいる内容ですよね…)思わず朝から全部読んでしまい、案の定涙が止まらなかったですが、どんな形であれ「死と向き合う」という姿には、勇気付けられます。それを表現することも、すごいことだと思います。

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なんかまた大きくなってたモルパイセン。まだ成長期やけんね…!

今月の「一日一ブログ」の中でも確かちょっと書いたのですが、私がペットを飼うという恐ろしい仕事を決意したのは「結末を恐れずに生きるため」、でした。

細かいことはどこかに書いた気もするので(覚えてない)省きますが、自分が「今に集中」し、「今を100%楽しみ」、「今を安心して満ち足りて幸せで愛情を感じて生きる」ことをできるように、という条件において、私にとって必要だったのがペット、だったのです。人間じゃないとこがすごいでしょ。フラットシェアも同棲も、よほど「この人と住まねば!」と思わない限りは、私はしないでしょうね。

でも、動物は別…!動物なら…!必要っ………!😭

で、半年ほどのあれこれの後に、モルちゃんが来てくれた、というわけでした。

上のブログの中で「看病」について触れられていますが、その通りだな、と思います。

私が唯一体験したのは、母方のばあちゃんでした。ばあちゃんは4ヶ月の闘病生活の間、たくさんの人の訪問を受け、お別れを言う時間がありました。母は全てが終わったとき「母は私に看病をさせてくれた。病院嫌いだったじいちゃんは誰にも看病されたくなかったから一瞬で亡くなった。そう言う意味では、父は看病をさせてくれなかったんだなと思った」って母が言ってて、なんか、分かるな、と思いました。

ばあちゃんとの別れはものすごく辛くて、火葬が終わって焼き待ちの間に皆が寿司とか食ってる間、火葬場の裏で一人で30分ぐらい号泣してたのを覚えてます。「人がこの世からいなくなる」ということ、肉体と魂の関係をはっきり認識したのは、ばあちゃんが死んだ瞬間から私はずっとばあちゃんに話しかけ、コンタクトを取り続けたからです。気づいたら必要に応じてチャネリングできるようになってました…。(どんな副産物だ…)

その体験を通して、「看病」っていうのは一方向ではないことに気づけました。ばあちゃんの死は、私たちにいろいろなことを残していってくれました。

病を誰にも言わずにしまい込み、限界がきたその朝突然サッと死ぬのも、ちょっと常人にはできないすごいことだと思うんですが(祖父の生き方そのものでした)、祖母の死に方とそこに至るプロセスというのは、「お別れを言う時間をくれた」という側面がありました。それと、その間にあったあれこれで、いろいろと問題も残してはいかれましたが…。(笑)まぁそれも、まだこれから生きるこちらの学びとして残ったということです。

生きるのは迷惑をかけあうことだけど、それは迷惑じゃなくて、面倒を見るっていうのはなんらかの理由につき、生きとし生けるものの課題なんだと思う。

スピリットアニマルオラクルにも、カワウソのカードにそれが出てくるんですが、「あなたは一人ではない」というメッセージに書かれている「面倒を見ることで、面倒をみられていることも思い出すよ」というものを、私はモルちゃんを見るようになってから、前よりさらに感じるようになってきました。

面倒を見たり見られたりすることは大切なことで、良い悪いはないってことなんだな…と。

どんな人にでも、面倒を見てもらわねばならない部分があり、また面倒を見る能力も与えられている。そんなことなのかな、って。軽く考えてよかったし、それを以ってして私なんだ、というのが、友達同士であり、仲間同士なのかな、って。そしてプロセスにフォーカスし、プロセスを楽しみ、一つずつを喜ぶことなんだな、と。

生きるということが、実態と実質を持ち始めたような気がします。

ところでね、世界は私を生まれさせたということは、世界は私を養ってくれると保証したってことなんだ、と今日、ふと気づいたんです。

この地球にいる間は、私を養ってくれる力が、きちんと面倒を見てくれています。

その力は必ず何かの形を通して、私を導いてくれていて、私は常に、養われている。

今回すべき成長を終えたら、また次の形になるべく、天に帰る。

「この地球に養ってくれるものが存在する」ということを、私はこんなに長い間、意識できていなかったのだな、と思います。今日もスピリットアニマルのトンボのカードにそれを言われまして…、「ハッ!!!!」てなりました。。(今日翻訳し直して突然ハッッ!!!てなったのはこのカードでした。笑)

私は、生きている以上、地球なりスピリットなり大いなる力なりに、きちんと養育されているんですね…。

…モルちゃんいなかったら絶対気づいていなかったなぁー…。

不思議だけど、そう実感します。

一人で家にいる時には、こんな感覚は生まれたことがありませんでした。。

「ペットを飼ったら、ゆきこちゃんはもっと強くなるわ!」

モルちゃんのご実家、譲り主さんが、なぜかそう言ってたのですが、今になってますますそう感じてきています。

強いって、私が思ってたような形じゃ、決してなくて。

「私は守られている」「私は養われている」と気づく、ということは、私を確実に強くしてくれました。

安心という感覚をほとんど持ったことがないまま生きてきたからです。

そっかー…。

…不思議だなー。。ありがたい……

いくら最初に決意があったとはいえ、地球はこうして、やっぱりものすごい速度で、夢を実現してくれました。

すごいなー…。。。

仕事もそうなってきた。

今まではどこか、辛くて苦しいだけ、みたいな部分があった。

何か現実世界で目標を達成すれば死ねるのかなぁ、みたいな。でもそれもないし…ていう。

でも、あ、違うんだなと思ったの、多分ごく最近なのです。

一番最初のきっかけは、多分前にもブログに書いた、「自分が周りに愛されてることに生まれて初めて気づいた」というところ。

そして今は「私は、自分だけが誰かの面倒を見るべきなのではなく、誰かに面倒を見られてもよいのだ」という認識。

これは、今までありませんでした。つまりどこかで、自分は面倒を見る側、与える側になるべきであって、だから自分が面倒を見られていることが許せない、という感じだったんですよね…。どこかでずっと、そうで。傲慢ですけど、本当にそう感じていました。

そのせいで今までは幸せに気付きにくかったけど、今日の午後ふと突然、とあることに気づいたんです。この国に来て二人もの作者が、イラストレーションをゆきこに描いて欲しいと言って頼んでくれて、喜んで私の絵と一緒にプレゼンしに行ってくれたなんて、あっ実はすごいことなんだな…って。突然…気づいて…。いや、これって何なんだろうって今まで思ってたんですよ。職業イラストレーターではない私なのでどこにも所属してませんし、突発的な案件以外引き受けてないわけなんですけど。しかしこれって、なんて幸せ者なのか。

打ち合わせの過程一つずつも、助けてもらっていいというか、質問して話し合うことすべてが必要なプロセスだと分かってる。すごいことだと思う。

すごいな。すごいことだな…。私は、自分の役割を果たそう。と。

フラ語の帰りの空を見上げながら、改めて誓った日でした。

地球においての「別れる」は、恐らく、他の星でのそれとは比べ物にならない質量を伴っていて、だからこそ、重要なんだろうなと思うのです。後悔とか、自責とか、幸福な思い出とか、体感とか、第六感とか、全部が一緒になっているもの…。地球で命と関わることは、ものすごいことだと思います。莫大な情報量の体験になります。

作品もそうで、完成させるってことは終わらせるってことでしょ…と思ってる自分がいて。

近年だんだんどんどん、「終わらせる」ことが怖くなってきてるような気がするんです。笑

でも、作りたいストーリーがある。諦めてない物語がある。

こないだ別の作家の友達と話してたら、10年越しのネタに突然結末が降ってきて、一気に書けた、てこととかあるから、諦めないでだいじょぶだよ!来るよ!!て言われてめちゃめちゃ勇気出ました。。

私の内面の変化や成長と一緒に、そういうのも来ると思うんですよね…。一つずつって、絶対繋がってる。。

だから、これからもちゃんと諦めずに、ちゃんと継続して、

一つずつに集中して、さらに良いものを作っていこう、って。

思うのでありました。

「死」についてのブログのはずなのにね。

いや、表現とか創作って、生と死に直結してるんですよねぇ…。私だけ?

いやいや。。そんなことないでしょ。

オマケ。

滅多にならないアクティブモードになったモルちゃんの冒険…

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秘蔵のモルたまも…載せちゃったぞ☆ごめんなモル☆

んだば!!

英語オラクル生活。

趣味でオラクルカードを英語で読んでいるものです、こんにちは。

前エントリ参照。

これの続きというか、今の私の取り組みとか気づき、言語編。。!

ここの冒頭にも「翻訳を直してる」とありますが、そうなのです、今月あたりからは、自分で初期(2〜3月頃)に独力でやった訳を読んで「意味不明だなぁ…」と思ったやつを「きちんと意味の軸を保ったまま、もっともすらっと入ってくる日本語表現に訳していく」という段階に入ってます。二段階目の翻訳かな…いや、三段階目なのか。

翻訳って、何段階か訳すと思うんですけど、

最初は「意味を取る」(これは自分だけ分かってればいい)、

次が「直訳する」(英語表現の正確な把握と個人的な記録)、

最後が「意味を保ったまま、分かりづらい箇所を意訳する」(自然に吸収できるレベルの日本語表現にブラッシュアップする)

だと思うのです。

翻訳家さんがプロとしてやるのは三段階目だと思うんですよね。ここで好みとか仕上がり具合が決まっちゃうので、腕の見せ所なんですよね。もう、ほぼ作家といって過言ではありません。

それはさておき、翻訳のそれぞれの段階に何度かかかる部分もあるでしょうし、一発でパスすることもあるでしょうが、私の場合、2月から始めたこの作業において、2月に出たカードは完全に最初の「読んで理解するだけ」でした。次に、「直訳」を始めました。なので、初期の自家製翻訳は、「なんとなくこうかな」と「直訳」の組み合わせ。だから、自分で書いた日本語を見ても、何一つ大事なことが入ってこない。。しかしてものすごく分からない文章があった覚えもないので先生に質問することもなく3ヶ月そのまま放置してきて、たまに意味を見ては「なんだかなぁ…」ということで、時間を見つけてはたまに原文をもう一度見ながら訳し直していきますと、驚愕。そう。分からない人特有の「何が分からないのかを分かってない」という翻訳だったのですねぇ…。辞書の見方も分かってない、っていう感じが…すごい…。訳し直していったら、このカードの慈愛と的確さに満ちたメッセージがまたどんどん入ってきて、グハァッ!てなっています。ええ、しゅごぉい…。やっぱちゃんと訳すと違うぅ…。ほんのちょっとの語順の違いやsのあるなしとかで、形容詞と動詞が同じ形のやつは余裕で混同されてしまうし、意味も変わるし、ただでさえコレットの文章は「wordy」だそうなので、そのwordyさにぶん回されてしまう。。そうして出来たのが初期翻訳だったのですねぇ…。

どうりで訳した日本語読んだ時にさっぱり意味が入ってこんはずだよ…。そういう、一つ一つの小さなケアレスミスとか読み違いが、こんなに…大きいんだ…って今、やり直すたびに驚愕してますよ…。いやぁ…。自分で自分の3ヶ月前の翻訳見て赤面するとか…すごいよ…。

まぁでも、それは真面目に3ヶ月頑張ったからなのかな…と自分を慰める…。(笑)いや、別に凹んではいないんですけどね。。ただ、3ヶ月でこんなに変わるぅ…!?て思うとホントに…すごいや…と。

同じ翻訳内容でも、句読点を入れる箇所を変えただけで突然分かりやすくスッと入ってくるようになったりすると、こ、これかー!てなります。

それと、一番大切なのは、何度も読み直しながら考え直す、というプロセス自体、ですよね。カードと向き合うというプロセスの一つとして、英語という手段が今回たまたま浮上しただけです。

「ほんとにこんなこと言ってたっけ??」というのは、自分が公式の日本語訳を見た時に抱いた違和感でしたが、自分の翻訳に対しても「何じゃこりゃ???」て原文を読み直して「これかー!!」とか、これ分からんからSusan先生に次回聞こ!てなって「それかー!!!」てなったり。

このプロセス自体が、「オラクルカードと対等に向き合う」、というものだと思うのです。

これは日本語のカードをただ普通に使っていても、行っていることです。原文かどうかは関係ありません。

オラクルカードを使うというのは、注意深く、その「暗号」が自分の実際の生活や人生において、何を意味するのか、そして実際それを体験して自分がどうだったのか、ですから。

さて英語の話題に戻りますが、今の自分の力だと、最初から「意訳、または意訳に近い形にするか、あえて直訳にしておくほうがしっくりくるか」を選択しながら文章を作るぐらいの余裕があります。(すごい)(見てるか、3ヶ月前の俺よ)つまり、このカードのことをまったく知らない初見の人に自分の翻訳をいきなり読んでも、ちゃんとあのカードの良さ、醍醐味、核心部が伝わるように日本語として成立させる(ことを目指して作る)、ということです。

英語表現は、英語として完成していますから、これを日本語にしろと言われてもっ!!みたいなものがどうしても出て来ますが、それを言い表すものすごい適切な文章が実はこの角度からだった!!みたいなのが脳内で突然見つかった瞬間のアハ体験感がすごいです。いやー。すごいです。

ちなみにアハ体験は英語だとaha momentなんだって。これもスピリットアニマルに書いてあたよ…。すべてはこの本が教えてくれたよ…ありがとう…師匠………

というわけで相変わらず楽しく続けています。。

来月いっぱい、先生がアメリカに一時帰国しちゃうので、二人ともオラクルカードで英語の勉強というこのとんでもない時間をめちゃめちゃ愛しているため、まだ目の前にいるのに「Susan... I miss you...」って早漏かましてしまった。だって今から寂しいんだもん〜〜〜😭つらい😭一刻も早く帰ってきて。。笑

何か教える用事とかある時はFacebookの通話のやつで話しましょ!て言われてるので、半年前に一度やめたFBに戻ることにした…。…といいながらまだやってませんが…。笑

はぁ〜〜〜Susanありがと…!

ただ、これでほとんどのカード、出揃ってるんですよね、現状。まだ見ぬカードは1〜2枚ほど、正位置か逆位置のどちらかしか出てないカードもまだけっこうあるとは思うんですが、ずいぶん出た…んですよね…!!うわ〜お。

なので、この状態で1ヶ月レッスンお休みで過ごしてみて、どのぐらい質問が溜まるかな、お楽しみ、という感じです。

レッスンで聞かなくてもかなりのとこまで分かるようにもなってきてるし、やっぱり全然分からないやつもあるので、ふむ…!

6月の間に、今までに習ったノートでまとめきれてない&翻訳訂正しきれてないものが穴が埋まるといいなぁ、と思います。趣味半分仕事半分、まぁつまり私のいつもの仕事です。楽しくやっていきます◎

あと手法としてはやっぱり、iPadに正確な文字認識がされてるPDFを入れて長押しで調べていく方法が強すぎ&万能すぎで、これは本当に推します。いや…最強だわ…。これからもほとんどの英語やフラ語書類はこれで読めると思う…。英語やフラ語はメジャー言語だから強いよなぁ…!しみじみ…。日本語だって、iOSに入ってるってことは相当強いんですよ…。チェコ語なんて…インストールされる未来がくるか否か…多分…ないんじゃないかな…(涙)(マイナー言語国在住者の悲しみ)

はーーーフラ語のテスト終わったんだーーー!!

ブログも、これを入れてあと5個書くと31個書いたことになって、「1日一ブログ」達成できるんですよね。

さて、どうなりますか…。ネタはあります。(笑)

とりあえず、更新!!

PS そういえば初めて写真なしで投稿したら、なんかサムネにオッッッッシャレなコーヒー写真ついてない!?オシャレじゃない!?!?

No one can blame you.

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ひどい言葉でなじられましたか。あなたを理解しようとしない人がいましたか。あまつさえ、それをあなたのせいにされましたか。

あえてあなたにこう言います。気にしないでください。本当に、気にする理由がどこにもないからです。

人を責める人は、凶器を用いて自分を責めている、心の鈍い人です。凶器を使わなければ、その人は自分の心に刺激を与えられないのです。

あなたは、その人ですか?違うのではありませんか?あなたは、あなたなのではありませんか。

分厚い鉄でできた心と、ごく薄く、皮膜が破れると血を流す心を同じに扱うのは、おかしいとは思いませんか。また、そのようにする人の言葉など、聞くに値しません。あなたが聞かないと決めれば、すぐに退散します。

その言葉がそれほどに胸に刺さるのだとしたら、おそらく、あなたを本当に責めているのは、あなた自身なのでしょう。聞く理由のない言葉を聞いてしまう理由はただ一つ、あなたも、あなたをとても責めてしまっているから、なのでしょう。

自分を守れなかった自分を、愚かな決断をした、誤ったことをしたと思っている過去の自分を…

しかし、過去のことです。起きた出来事は、学ぶべきことを身につけたから、去りました。

あなたは、学び終えたのです。学び終えた課題を何度もほじくり返す必要はありません…、どうか、傷跡をこれ以上痛めつけることで、傷の完治を遅らせないようにしてください。それはもう塞がって、傷跡が見えなくなってもいいのです。証拠などなくても、あなたは同じ目には遭いません。

あなたは十分にやったのです。そして、それはもう、終わりました。あなたは立派に終えたのです。

どうか、あなたのすべての歩みを誇りに思ってください。

今ここにやってきた今の平穏を、恵みを、幸せを、胸いっぱいに吸い込んで、全身で味わって、こわばっている体のすべての力を抜いてください。

もう、大丈夫です。あなたを、許してください。

Your Hight is Perfect.

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この世は不思議なものです。全ての存在は等しく、そうあるべき形に作られました。これは理想論ではなく、実際にそうなのです。

ところが人には、「自分でなければ」もっと良かったのではないか、と隣の芝生の青さばかりが目に付く時があるものです。

背が低い人は、もっと身長があったら、と思ってしまいます。

背の高い人は、こんなに背が高くなければ、と思ってしまうのです。

中くらいの人なら、もっと高いかもっと低いかすれば、と思うものです。

人間とはそのようにできていて、それ自体は悪いことではありません。その力は、自分以外のすべての人にある素敵なところ、すばらしいところを称えられる力として使いましょう。そして、あなた自身が「私はこうあるべき姿じゃなかったのではないか」と考えるのを、やめるところから始めましょう。

━または試しに、自分がもし今より大きかったら、今より小さかったら、もし男だったら、女だったら、違う国の人だったらなど、考えに考え尽くしてみてもいいでしょう。どちらにせよ、あなたの中で「それでも、自分はやはりどういうわけだか、この形に生まれるべくして生まれたのだ」という、真実が見つかるのではないでしょうか。

Self-acceptance(自己受容)とは、そこから始まります。自分の全てが「これでよかったのだ」と思うことは、決して高慢でも、やりすぎでもありません。ただ普通にすべき、普通のレベルです。これが苦手な人はまず、「あなたはすべて、余すところなく、これでよかったのだ」と、理由が分からなくてもいいので、自分自身に言い聞かせるところから始めてください。今使っている手帳の一番最初のページにこの言葉を書き、日に何度も眺めましょう。鏡を見て自分にこう語りかけましょう。

それが当たり前であることを認めると、まもなくして、世界の見え方が一変します。今まで思っていた世界ではなくなるのです。すべての人が等しく素晴らしいこと、どんな状態にある人にも意味、つまり「命」が与えられているということ、その意味というものは、人間の知性での認識力を超えた場所に存在することが、肌感覚で分かってくればしめたものです。あなたは突然、自分が一人ではないことを知るでしょう。

あなたの背丈は、いつだって完璧なのです。

自分を知って受け入れ、自分以外の人もすべて完璧であることを見て、微笑みながら暮らしてください。

YOU purpose.

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あなたが今気にしているその引っかかりは、あるべき方向に使われなかった比較という技術の問題である可能性があるため、あなたはこのカードを引きました。

生き方も体質も環境も目的も違う他人と自分との、たったの1ジャンルだけを切り出して比較し、落ち込んだり舞い上がったりするのは、本当にあなたの役に立ったのでしょうか。

意味のある比較とは、自分は常に自分に必要なものを把握しているのか、それに見合ったことを目指しそのための行動をしているか、それはやりすぎかやらなさすぎか、といったことです。自分の中で、行うことなのです。あなた自身のニーズや目的と、あなたのしていることやしてきたこととを比較するのには、この技術は大いに役立ち、あなたの心を健康に保ちます。

しかし、それを他人の目標と比べたり、他人のニーズと自分のニーズを横並びにして比べると、とたんにそれは心の不健康を加速させます。道具は何でも、使いようです。使い方を間違えれば凶器となり、正しく安全に使えば非常に役立つものとなります。

自分や他者の一部分だけ切り取ってそこに優劣を付けている時点で、その使い方は全く見当違いであり、なによりもあなた自身の尊厳を奪う行為です。ましてやそこから来るイライラを他者にぶつけるなんてことがあろうものなら、もはや言語道断です。

あなたにとって、あなた自身が幸福と満足を感じて生きるためにすべき本当のこととは、何でしょう。

それはあなたが自身の心と、魂のうちに抱く強い信念によくよく問いかけ、話し合い、現実における行動指針を決定すべきことなのです。

無意識のうちに他人と比べることで、自分自身の目的を見失い、まったくあなたの役に立たない悩みを抱えてしまうことは、意外によくあるものです。

例えば、「英語ができる」。

これを見て、あなたは何を思いますか?

流暢にクルクルとよく喋る姿を思い浮かべる人が大半ではないでしょうか。

では、もしあなたが「英語ができるようになりたい」と思ったとき、そのイメージがあなたにとって妥当かどうかを、検討したことはどのくらいありますか?自分の目的をはっきりさせ、それに沿った行動をしていれば、おのずとその「いわゆる英語ができる人というイメージ」とのギャップに劣等感を覚えたり、苦しみを感じることは、きれいさっぱりなくなるはずなのです。

例えば「今読んでいる本が分かればいい」「好きな映画が大体聞き取れればいい」「海外の友達とメッセできればよい」「英語の試験をパスできればよい」等であれば、ペラペラ喋れるようになる必要はありませんし、そのためにすべき勉強内容はそれぞれ全く異なります。自分が必要とする目的を満たす勉強をすれば、心が落ち着くでしょう。そして目的を達成し、あなた自身を輝かせる人生を送ればよいのです。

また、この目的意識の違いを理解しない人や、初対面の人などには、早めに自分の目的レベルや段階を伝えておけば、誤解も少なく、お互いにスムーズにやりとりができるでしょう。

おしゃべりな人で、感情や体験を言葉で表現できないと生きた心地がしない人は、放っておいてもすぐ上達します。それは、その人がそれを必要としているからです。ないと生きられないからです。一方、おしゃべりじゃない人は喋りたいと思ってないので、それほど上達しません。実際に習っても喋りません。そして、それでよいのです。

自分の目的を自分で知り、それを達成すると決めて行動することで、自分であることに完全に満ち足りることを優先してください。あなたが何に興味があるのか、あなたは知っているはずです。それに正直になればよいのです。

自分は自分なんだから、ということが身にしみて分かってれば、高望みも卑屈も起こらないはずなのです。

ですが、もっと言うならば、それをどうしたら身にしみて分かるかというと実は、たくさん失敗して、いっぱい見当違いのことをして、それでやっと、分かるのです。

ですから間違いを恐れないで、どんどん行動してください。 いろいろやっては、迷ってみてください。

そうして勇気を出して体験し、不幸と貧しさを味わったら、いつでも、本当の豊かさに戻ってきてください。今でも、明日でも、数年後でも。天使はずっとここにいて、あなたを見守り、不必要なほどの不幸からも守っています。

自分のために行動できるあなたは、とても素敵です。

そして、自分のことを尊重できる人になってください。

自分の姿を知った人は、他者のありのままの存在も尊重できるようになります。

世界は、それでよいのです。そのように設計されているのです。

大いなるものの思いを信じて、いつでもあなた自身でいてください。

高みを目指すことばかりが正解だなんて思わないでください。

ただ、真っ正直に、あなたでいて欲しいのです。

それが最も美しく、この世界に最も望まれている、あなたという形だからです。

よもやま(編み物とドライアップル)

そろそろ本気で絵本仕事がヤバいことに気づき始め、う、うあぁ…と思いながら原文読むのを再開したのですが、完璧なアメリカ英語で書かれてるSpiritAnimalOracleを読むのと、チェコ語からイギリス英語に自動翻訳したのを手直ししたものを読む読みづらさの差はなっ…かなかすごくて、うっ……うおっ……てなりながらだからなかなか進まず、でも英語の先生が助けてくれると言ってくれたりしてちょっと助かったり、まぁもちろん作者であるニコラに直接電話して聞けば済むんですけども、ふああ〜!ていいながらがんばることにしたら、

え〜どうやらですね、一日一ブログがちょっと危うくなって…きたんですねぇ…。

もうすぐ1ヶ月とはいえ、1ヶ月は走りきるつもりだった…んですが、んんん、どうしたもんか。。。

とりあえず月末まではちょっと日が飛ぶかもだけど続けて、そのあとはまたご無沙汰になってしまうかもしれませんが、小ネタは随時ツイッターではブツブツしてますので、ROMって頂いても…!ブログの右上にリンクがあった…はず…!

アカウント持ってたらぜひあたいと遊んでください…定期的にフォロバしています。ぬんぬん。

にっきっき。

・前にブログに書いた編み物、やっとしました!

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こんな感じで、表と裏に違う編み地を試してみました。

ちょうど裏編み終わったら糸がきれいになくなりまして、ちょうどよかったぜ…と新しい白い糸に。

ちなみに、どちらもスーパーで買える麻紐を使っています。安いし丈夫だし、案外ええ感じに仕上がるし、毛糸選びに行く時間がなくても作れるし、実用的なので…!

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ちょっとこういう、いかにも机を傷つけそうな、これ…不安だったんですよぉ…今までは手ぬぐいを巻いて洗濯バサミで止めてたんですけど…早くカバーが欲しかった。。

そして。

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じゃじゃーん

できた!

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完全カスタムサイズ!適当に編んだのに!怖い!適当力が高すぎる自分が怖い!(まんじゅう怖い論法)

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ふぅ〜〜ジャストサイズ☆めちゃめちゃきもちい…。(サイドの縫い合わせメチャメチャ適当だけど)

かぎ針編みのいいとこ、棒一本で終わるとこ。カスタムサイズの小物がぱぱっと作れるとこ。

久々にやってカンが戻りきらなかったけど、楽しかった!

やっぱ、実物の本っていいな。アガるなぁ。

・最近けっこう本づいていて、気になる本は買える範囲で電子書籍で買ったりしているんですが、ふと気づいた。

電子で本を読んでると、脳内に直接データを流し込まれてる感じになって、うおぉっ?!てなるな…と。

指に、紙のざらっとした引っかかりとか重力とかがないから、ツルツルーッて流れ込んでくる感じで、いつのまにか頭にデータ入ってた、みたいな感じで…。「私は果たして読んだのか?『読んだ』のか???」みたいな…。これ、分かってもらえるだろうか…。

私は小さい頃からもう、携帯電話レベルで本を携えてた人間なので、本は紙に刷られてて製本されていて、紙を1ページずつめくったり、戻ったり、このへんだったっけ??て束で掴んだり、グシャッてなったり、読んで行くと右端が薄かったのが厚くなり、左端が薄くなていって、あ、めくるページがない…ってなったら読了、だったりするわけで。紙の重さ、質感、量と一緒に入ってくるものが、本という世界だったんですよね。

といっても別にそれにすごくこだわってるわけではないです。まぁ絵本や図録は圧倒的に紙派ではあるものの、文学や哲学など、文章を入れるためのものであればどちらかというと操作性や携帯性考えると電子バンザイなんです。海外でも買えるのも、今の私には本当に本当に…ありがたい…。

ただ、なんだろ、情報の入って来方がホントに、脳にUSBプラグ直接ぶっさしたのでは?という感じなんですよ…!

いや、この感じ…伝わるじゃろうか……

やっぱね、できれば、お金ない人なので地元のお気に入りの古書店でうろうろしたりとか、そういうのしたい派なんですよ。お金ないから、スピリチュアルに入りたての頃はとにかく図書館フル活用で、読みたい本片っ端から貸出予約して、地元の図書館に到着次第借りに行き、数十冊読みました…。図書館ありがとう…今のあたいがあるのは図書館のおかげ…

……図書館……お前が恋しい…😭

チェコ語で読めるのは絵本が限界だし、英語でも小説はちょっとカンベンしてもらいたい感じですしねぇ…。それこそ電子なら調べながら読めるからウェルカムなんだけども…。悩ましいのぅ!

・なんかこないだフラ語の帰りにドラッグストアでレジ並んでたら、ふと、前の人がドライアップル持ってて、あ、いいな?と思って買ったんですけど、帰宅してみたら、そういやモルモットもりんご食べるじゃん!てことで、モルちゃんと一緒に食べられるおやつが突然見つかって、なんだか飼い主ウキウキしてます。

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ふふふ…

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こんなんです。

もう一個買ったやつはソフトドライ?な、ちょっと半生感あるやつ。そちらも美味しい。

うちのモル氏は甘いものがもともと好きじゃないので、ほんの少しだけ食べたら満足します。

飼い主もそんなバクバク食べるわけじゃないので、二人でちょっと食べて、ふふっ、美味しいね。てしてます。

一緒に食べれるおやつって、こんなに嬉しいんだなぁ…。なんだか、とても嬉しい。

作業の合間、脳が疲れてモルちゃ〜〜んって抱っこしに迎えに行くことが多いので、その時にひとかけらふたかけら、ぽりぽり、て二人で食べて、おいしかったね、ってごろりんしてなでなでしています。

楽しいなぁ。

いまだにたまに、うちにかわいいモルちゃんがいるなんて…、夢じゃないかしら?て思うことがあるくらい、嬉しいのです。

運命の巡り合わせに、毎日感謝してしまいます。

ありがたいなぁ。

また更新します!